チリンチリン……

風をうけ風鈴が涼しげな音をたてて鳴る。

だが部屋の主は音に気付く様子もなく、ただ机に向かって云々と唸っていた。

机の上には色とりどりのクレヨンと色鉛筆。

そして部屋の主は青色のクレヨンを片手に大きな紙にぐりぐりと描いていた。

だがやがてクレヨンを動かす音が止み、次にはぐしゃ!と紙を握りつぶす音が部屋に響く。

「あーん、出来ないよぅ……」

丸くなった紙を近くのゴミ箱にポイ捨てしながら、雛子は呟く。

雛子は今、夏休みの宿題にとりかかっている。

テーマ事態はわりかし普通なのだがその普通なテーマが雛子を悩ませている一因だ。

「う〜ん……どんなのがいいかな……?」

新しい紙を取り出し、クレヨン片手に云々唸る雛子。

絵の方はわりと得意なので今回のスランプは雛子の母が一番驚いていた。

だが実際母親が心配しているような問題ではなかったりするのだが。

雛子は別の事で悩んでいるのだ。

「う〜ん……う〜ん……う〜ん……」

頭を抱えて唸り声を上げながら、クレヨンをぐりぐりと適当に動かす。

だがやはり駄目なものは駄目だ。雛子はクレヨンを置き、机にぐったりと倒れてしまった。

そうしてしばらくずっとそのまま何もせずいると自然と風鈴の音が聞こえる。

チリンチリン………

風鈴の音は聞こえていても雛子本人はさほど気にしてはいなかった。

目の前にある宿題の事で頭を悩ませているのだ。

普段のように音を楽しむなどという暇はない。

「困ったなぁ……」

そうやって悩ませていた、刹那。









チリンチリン………

風鈴に似た音が外から聞こえてきた。

近所の家にある風鈴かな…と雛子は思ったがそれにしては近すぎるような気もする。

そして風鈴にしては少し大きな音のようにも聞こえたので

雛子は立ち上がり、音がした方の窓際へ歩み寄ると……

「雛子――――!!」

チリンチリン…と再び音がする。

どうやらそれは自転車のベルの音らしく、乗っている人物が音を出していた。

雛子は乗っている人物を見て、驚きより喜びを露わにしたような表情を浮かべる。

「あ、おにいたま!!」

自転車で雛子の家の前にいた人物―それは雛子の兄である「おにいたま」だった。

諸所の事情で離れ離れに暮らしているがそれでも兄妹仲が良くよくこうやって会っている。

一緒に暮らせなくてとても寂しいがその分一緒にいられる時間がとても嬉しい。

雛子は窓から上半身を出し、「おにいたま〜!!」と元気よく手を振った。

そんな雛子を兄は嬉しそうに見やりながら「今からそっちに行くー」とだけ言って

自転車を置きに車庫へと向かっていった。

兄の後姿を笑顔で見つめていた雛子は兄をお出迎えしようと玄関先へと駆け足で降りていった。

(おにいたまがヒナの家に来てくれてる……!)

夏休み中はこういった事が沢山あったがそれでも一緒に暮らせない分嬉しいものは嬉しい。

雛子は大きな音をたて玄関へと降り立った。

丁度玄関へとたどり着いた瞬間、ガチャ…とドアが開く音がする。

その音を聞いてとっさに雛子はドアへと駆け出し

現れた人物にダイビングするようにガシッと突撃した。

「おにいたまっ!!」

ドスッ!!

「ぐはっ!!」

突然抱きしめられ驚いたのもそうだが情けない声を出したのは

身長差の所為で雛子の頭が腰へと直撃した所為だった。

とても痛かったが兄はそれを悟られないように引きつった笑顔を雛子に向ける。

「や、やぁ…雛子。元気だったかい…?」

「うんっ!おにいたまと会えてヒナとっても元気〜!!」

そう明るく笑う雛子は言葉通りとても元気で、兄もほっと胸を撫で下ろした。

そんな時、雛子の母親が居間からそっと姿を現した。

そうして兄の姿を見て「あら、今日和」と柔らかく微笑んで会釈した。

つられて兄も軽く会釈する。

「お母さん今日和。雛子がいつもお世話になってます」

「いえいえ、そちらは1人暮らしで何かと大変でしょう?

雛子のお世話なら私達に任せてね」

兄はいつも思うのだが雛子の母親は人を安心させるようなオーラを持っていると思う。

何と言うか母性的な人というべきだろうか。

妹達の親は皆とても優しく、血の繋がっていない娘でも良くしてもらっているので

兄も両親も安心して妹達を任せられるのだ。

そんな事を思っていると雛子のお母さんがふと思い出したかのように「あ」と短く叫んだ。

そして兄に抱きついている雛子を笑顔で見つめながら声をあげる。

「そういえば雛子、夏休みの宿題どう?進んだ?」

宿題、という言葉を聞き、雛子は満面の笑みから沈んだような表情に豹変した。

抱きついていた兄から離れ母親の方を見つめて、重く沈みながら呟く。

「……全然出来ないよぅ……」

今にでも泣きそうな返事に母親は「あ、ご、ごめんね雛子」と慌てて謝る。

そんな雛子を兄は驚いたかのようにじっと見つめる。

「……あの雛子が、宿題が全然出来ない……?」

いつもなら器用に何でもやってのける雛子だっただけに出来ないという返事は予想外だった。

そんな兄の独り言が聞こえたのか、雛子は潤んだ瞳で兄を見つめる。

「おにいたま…どうしよう…?ヒナ全然出来ないよぉ……」

目元に涙が溢れ出したので兄は慌てて屈んで雛子を抱きしめる。

雛子は「おにいたまぁ〜…」と声を漏らしながら大泣きし始めてしまった。

兄の胸の中でわんわん泣く雛子を見て母も困ったように顔をしかめる。

「私も驚いたのよ。いつもならこの時期とっくのとうに終わらせてるのにねぇ…」

雛子の母はそう呟いた後何かを思いついたように表情を変えた。

「ねぇお兄さん、もし良かったら雛子の宿題見てやってくれないかしら?

何処で詰まってるのか分からないし…お兄さんなら雛子も相談しやすいと思うの。」

「えっ!?おにいたまヒナの宿題手伝ってくれるの!?」

雛子の母の突然の提案に雛子は目を輝かせて喜んだ。

普段独り占めできない兄を独り占めできるのだ。これ以上嬉しい事はない。

「あ、えっと……相談に乗るだけだよ?宿題は自分でやるものだし…。」

突然提案され、しかも妹にすら喜ばれた矢先今更「無理です」と言うのも酷であろう。

というわけで兄は愛する妹のために人肌脱ぐ事にした。

その返事を聞いて「そっか〜」と雛子が明るく呟いた後、

彼女は再び兄にぎゅーっと抱きつきながら「ふふふ」と笑いながら言葉を吐く。

「でもおにいたまと一緒にいられるって事だよね?ヒナ嬉しいな〜vv」

「……そ、そうだね……」

楽観的な雛子の態度に相変わらずだなと思いつつも兄は思わず苦笑する。

とりあえず雛子に連れられて兄は雛子の部屋へと移動した。









部屋に入ってまず兄が一番驚いた事は机の上に散らばっているクレヨン、色鉛筆などであった。

そしてきちんと清掃した部屋に似つかわしいゴミ箱辺りに散らばっている

紙クズも兄を驚かせるのに充分だった。…というか一番驚いた。

「…………」

「?おにいたまどうしたの〜?」

部屋の惨状を目の当たりにし、兄は「よほどスランプなんだな…」と心の中で呟いた後、

その紙クズとクレヨンから宿題を察し、雛子に問い掛ける。

「宿題は絵かい?」

椅子に腰掛け新しい紙を取り出しながら雛子は「そうだよー」と言う。

取りあえず兄は雛子の傍に行く前に散らばっていた紙クズをゴミ箱に仕舞うべく

腰を下ろし、拾いながら再び彼女に問い掛ける。

「でも絵はどっちかというと雛子の得意分野じゃなかったっけ?どうしてスランプなんだい?」

そう質問し終わったと同時に紙クズを全部ゴミ箱に戻し、兄はゆっくりと立ち上がり雛子の方を向いた。

すると雛子が涙目で兄を見つめていたので兄は思わずぎょっとなった。

「ひ、雛子……?」

今にでも泣きそうな妹をおどおどしながら見つめていると雛子は唇を強く噛み、

「あ、あのね……」と涙を堪えようと必死にしながら言葉を紡いだ。

「今回の絵のテーマが…夏休みの思い出なの……」

「………うん」

雛子の言葉をじっと聞きながら、ゴクリと喉を鳴らす。

「それでね…その夏休みの思い出を何にしようか悩んでるの……」

「…………はぁ…」

兄は予想していた悩みとは違ったので多少驚いた。

彼の予想ではテーマに沿ったものが描けないというものだと思っていたのだが

どうやらそれよりまず先にテーマが決まらないらしい。

どんな課題にしろテーマがなければ結果を残す事は出来ないだろう。

だがそれよりなにより兄は夏休みの事を思い出しながら、思わずツッコむ。

「…あんなに色んな事があったのにかい?」

兄が覚えている限りでは一緒に海やプールも行ったし、妹全員で祭りにも行った。

そして誕生日も一緒に祝ったし、何より旅行だって行ったのだから。

そう思いつつ問うてみると雛子は「そうだけど…」と悩みながら呟いた。

「ありすぎてどれにしようか決まらないの〜」

「………確かに色々ありすぎたね……」

兄も今年の夏休みのイベントラッシュには正直驚いてしまった。

妹達の元気な姿を見て幸せだったがそれにしてもイベントが多すぎて体力を使ってしまった。

確かに沢山の出来事があって雛子も何を書こうか悩むだろう。

彼女にとって兄との思い出はかけがえのないものなのだから。

(どれか1つにしろっていうのも無理か……)

そう思いつつ兄は雛子が座っている机の方へと移動する。

見ると雛子はクレヨン片手に唸っていた。

「どれにしようかな〜…」と呟きながらも頭を抱えているようだ。

そんな雛子を見て微笑ましくなったのと同時にこの悩みの解決法はないものか、と兄も考え始めた。

彼女自身が起こった出来事を1つに絞りだすというのはおそらく出来ないであろう。

彼女を傍で見てきた兄は痛いほどそれが分かっている。

自分と一緒に入る時間を大切にしてくれる雛子が兄は好きだから。

そして好きだからこそ、悩んでる事があったら解決してほしい。

といわけで兄もうんうん唸りながら絵のテーマについて考えて見ることにした。









「…………」

チリンチリン…………

「…………」

チリンチリン…………

風鈴の音が部屋に酷く反響する。

そんな音を聞きながら兄は一体何をテーマにしたらいいのかじっくりと悩んでいた。

可愛い妹の頼みだ。断るわけにはいかないだろう。

(しかし…)

兄も雛子と同じく出来事が沢山ありすぎてどれにしようか物凄く悩んだ。

「海に行った時の事なんかどうかな?」と問い掛ければもしかしたら

「それ以外のヒナとの思い出は楽しくなかったの??」と聞かれるだろうし。

(ああ……どうしよう……)

兄は思いっきり悩んだ。

嫌な妄想も交じって頭をぐるぐる回しながら考えをめぐらせていると

ふとシャカシャカ…という手を動かす音が聞こえてきた。

ふと気付いて見ると雛子が真剣な面持ちで紙に絵を描いていた。

「…………」

(…もしかしてどれにするか決めたのか?)

そう思いつつ兄は雛子の行動を真剣な面持ちで見つめていた。









チリンチリン……

風鈴の音色を耳にしながら、兄はしばし雛子が描く絵を黙って見つめていた。

そうしてどんどん絵が描かれていくうちに兄は思わず「ん?」と首を傾げてしまった。

最初海のようなものを描いていたので

てっきり妹全員でいった海の思い出を描いてるのかと思っていたのだが…

その後に妹全員で夏祭りに行って花火を見た絵も描いて、さらに次は誕生日の絵だ。

ごちゃ混ぜになっている絵を不思議そうに見つめていると雛子が「出来た〜!」と大声で叫びだした。

「おにいたま見て見て!!宿題出来ちゃったよ〜!!」

そうして雛子が「じゃじゃ〜ん!」と言いながら出された物を見、兄は驚いた。

絵は主に兄と一緒にいた時の出来事を描いており、同じ思い出を共有して兄には懐かしく感じた。

だが色々と問題がある。

「………雛子、ここの絵は一体何だい?」

「おにいたまにおんぶされた時の絵だよ〜」

「………これは?」

「おにいたまと一緒にお風呂入った時の絵だよ〜」

「………」

画用紙に描かれた絵は思い出という思い出を命一杯詰め込んだものであった。

詰め込みすぎてスペースが足りなかったのか絵の上に絵を描いてある。

クレヨン同士が合わない色のせいか妙に汚い絵になってしまったと思うのは気のせいだろうか。

「くしし、先生きっと驚くぞ〜」

「………そうだね」

ここまで詰め込んだ雛子を褒めるかそれともぐちゃぐちゃになった絵を貶すかどうかは分からないが

どっちにしろ先生―いや、同級生も―驚くに違いない。

雛子に描き直しを要求しようかとも思ったが本人が満足そうに絵を見つめているので 兄は黙っている事にした。

…それにこれ以上論議したとしても結局1つに選べないのだろうし。

「良かったね、雛子」

「うんっv」

(まぁ……良いか……)

兄は「何とかなるだろう…」と楽観的に考える事に決めた。

…この雛子の満足そうな笑みを見たら何も言えなくなったのだ。

大切そうに、夏休みの思い出の絵を抱きしめている雛子を見ていると。

絵とは上手いとか下手とか関わらずただ本人の満足できるものを描ければ良いと思うから。

だから兄は微笑みながら大切な妹を見つめるのだ。

今年の夏、沢山の事を一緒にやってきた雛子を。

沢山の思い出を共用した、雛子を。









「……あ、おにいたま……」

「ん?何だい雛子?」

突然囁くほど小さな声で呼ばれ考え事をしていた兄は急な事にハッと顔を上げる。

そうして顔を上げた瞬間雛子の小さな唇は兄の頬にちゅ、と触れていた。

「ひっ、雛子!?」

ただ軽くするだけのキス。外国だとただの挨拶ぐらいでしかないそのキスに兄は驚き、声が上擦った。

雛子は頬を赤く染めながら「くしし…」と笑うと兄の手を握りながら笑顔でこう言った。

「宿題手伝ってくれたお礼だよ。ありがとう、おにいたまv」

「……あ、ああ……うん……」

実際兄本人も何もやっていないと思うのだが何故か雛子に感謝され思わず頷いてしまう。

そんな兄をじっと見つめながら雛子は再び「くしし」と笑うと満面の笑みで兄に抱きついた。

「おにいたま…ヒナ一緒にお昼寝したいな〜……」

「………」

そんな可愛い声で言われると断れないじゃないか…などと思いつつも兄はコクリと頷いた。

雛子は「わ〜い!」と叫ぶとすぐさまベットに腰掛け、毛布1枚被せる。

「おにいたま〜、じゃあさっそく寝よv」

「………うん」

多少ドキドキしつつ兄は言葉に従って雛子のベットへともぐりこんだ。

薄っぺらい毛布で2人寄り添いながら眠りにつく。









チリンチリン……

鈴の音を聞きながらふと兄が雛子を見つめると雛子はもはや眠っていた。

「おにい…………たま………………」

ベットに入ってすぐさま眠りについた雛子を兄は愛おしそうに見つめる。

おそらく今まで散々悩み続けていたのだろう。追い詰められていたから安心して眠る事も出来なかったのだろうか。

同情をこめて彼女を見つめながらそんな事を思っていた、刹那。

(………そういえば、僕の宿題どうしようか……)

ふと、忘れそうになっていた問題が頭をよぎる。

実は兄は宿題をしようと図書館へ行こうとした時たまたま雛子の家を通り

窓から雛子の姿が見えたので声をかけただけなのだが午前中は完璧に行き損ねてしまった。

(………まぁ午後からでも良いか……)

起きれたらの話だけど、と付け加えながら兄もゆっくりと目を閉じた。

チリンチリン……と涼しげな音を耳にしながらやがて意識が朦朧としてくる。



たまにはこんな日もいいだろう。

妹と過ごす日々はとても素敵なものなのだから……



そう思いながら兄も雛子と同じように睡眠を始める。









チリンチリン………

部屋には小さな寝息と、涼しげな音だけが響いていた。

後書き