ザァァァァァァ……

潮風が肌を撫でた。
遠くから海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
群れをなす海鳥の声は、アランにとっては喧しい事この上なかった。
(………五月蝿いな……)
空へ舞う海鳥を睨みながらアランは深いため息を吐く。
そういえばアランは陸地付近に住んだ事しかない。
なので海など滅多に見ないし、海鳥だって物珍しい動物で、
今では思えないが海鳥の歌声を楽しむことだってあった。
海鳥の声が五月蝿く思うのはおそらく海岸付近に住んでからしばらく経ったからであろう。
海岸付近のマンションに部屋を借りてから、海鳥の歌は心地よい音楽から騒音へと変わる。
例えば昼寝している時、近くで海鳥が鳴いているのを聞くと急に目を覚ましてしまう。
小さな歌声だが昔から神経を使う仕事をしていたアランにとっては気になるものであった。
(……ま、慣れれば良いだけの事だけどな……)
慣れるまであそこにいられるかどうかは謎だがそう思う事にした。





「くー…………くー…………」
「………」
気持ち良さそうな寝息が聞こえてきたので
アランはベンチに自分の隣に俯きながら眠っている少女に視線を送る。
彼の隣で眠っている少女は自分の身を守る事などせずただ睡眠に集中していた。
…とてつもなく無用心だと思う。
昔「お前は無用心すぎる」と注意すると彼女は「アランさんの腕を信じてますから」
などと言うのだが実際には危機感というものがないだけのような気もする。
現にこうして呑気に人を疑う事無く眠っている。
もし寝ている隙に財布でも掏られたらどうするのだろう。
もしアランが一旦その場を離れた時誰かに攫われたらどうするのだろう。
そんな事を思いつつアランはじっと少女を見つめる。
「………呑気な寝方だな……」
第一感想は失礼なものだった。
そのうち涎が出るんじゃないかと思うほど口が大開きで
女としての魅力も何も感じない寝顔だ、とアランは思った。
外にいるくせに何故こうも安心しきっているのだろうか。
…やはりこいつには危機感というものが無いのだな、とアランは思った。
そうしてじっと見つめていたのだがやがてやる事がなくなってしまったので
暇つぶしに彼女を起こしてみる。





「ティ」
彼女―ティの名を呼ぶ。
「…………」
だが返事はない。
見るとティはもうすっかり夢の世界で妙に顔がにやついている。
寝ながら笑っているのはかなり無気味だと思うのだがそんな事を言っている場合ではない。
…電車が来ない以上急がなければならないのだ。
午後の日差しがあるうちに帰らなければ道に迷ったりと面倒だ。
薄暗い中マンションへ帰ろうとするのは身体的にも精神的にも辛いであろう。
なのでさっさと帰りたいアランはティの肩を揺さぶる。
「おい、ティ」
遠慮というものを一切せずゆさゆさと揺さってはみたものの起きる形跡はない。
「んー……」という揺さぶられて不満そうな声が漏れるだけだ。
「………」
アランは深いため息を吐いた。
そうして一つ何かを思いつく。
ちょっとティに仕掛けてみようと思ったのだ。
これで失敗したら恨まれるだろうがその時はお前が起きなかったからだ、とでも言おうかと思う。
そう思いアランはベンチからゆっくりと立ち上がり、
ティの姿を視界に入れる事すらせずただ前を歩いていった。
「……置いてくぞ、ティ」
振り向かずにそう呟く。
「………」
だが返事がなく、ティの寝息のみが聞こえていた。
作戦は失敗だろうか…などとアランが考えていた刹那。
「…………えっ!?ちょ、ちょっと待ってくださいよアランさん!!」
アランの呟きが聞こえ、慌てたように立ち上がるティ。
…作戦は成功だった。
このままずっと寝ていたらある意味良い話題になると思ったのに、と思いつつ
慌てて立ち上がったティがやけに可笑しかったのでアランは密かに微笑する。
「置いてかないでくださいよぉ〜!!」
後ろからティの情けない声が聞こえる。
アランは立ち止まり後ろを振り向くと鞄を手に抱え、
こちらへと走ってくるティを黙って見つめた。
そうして自分の元へとやってきたティは息を整えつつ困ったような表情をしていた。
「もう…意地悪しないでくださいよー……」
意地悪か…?と思いつつも文句をぶつぶつ呟くティを横目にアランはため息が出た。
「意地悪も何も勝手に睡眠に入ったお前が悪いんだろ。…これでも急いでるんだぞ俺達は」
「で、でもとっても温かくて、気持ち良かったですよ…?」
睡眠に入った言い訳にすらなってないセリフを聞くとアランは思わず苦笑してしまった。
…仕方がない奴だ、と思いティの腕から鞄を取り上げる。
ティが「あ、ありがとうございます…」と呟いたが返事を返す事無く
アランは踵を返し、早足でその場から立ち去ろうとする。
「暗くなる前に帰るぞ。…言い訳は後で聞く」
そう早口で言いながらもティをせかすとその場に立っていたティは
おどおどしながらもアランの後へついていった。
「い、言い訳じゃなくて本当ですよ〜!!」
ティは再び情けない声をあげながらアランの所へと駆け出した。






「ふんふんふふ〜ん♪」
楽しそうに鼻歌を歌いながらティは線路の上を歩く。
その後ろをアランは黙って歩いていた。
青い海が広がっていた。
潮風が肌を撫で潮の香りが鼻を掠める。
先ほどまで砂浜で海をじっと眺めていたのだがこんな光景を見ると
また食い入るように見つめていたい気分になった。
(…今日は時間が無いからまた今度にするか……)
そんな事を思いつつ、アランは歩いて街まで帰る事になった経緯を思い出す。
電車に乗らず、歩いて街まで帰る事になった理由はただ1つ。
電車に乗り遅れたからだった。
あまり人が乗らない所為か電車の本数が少ない駅なのだが最終便が4時だったのだ。
アランとティが住んでいる街へ帰ろう、と思った時に時刻は4時を回った所だった。
4時をちょっと過ぎていただけだったので遅れて来るかもしれないと
少しの期待を込めて1時間ほど待ったのだが結局来なかった。
つまり着いた時にはもう出発していたという事だ。
仕方が無いのでアランとティは歩いて街まで帰る事になったのだった。
そしてこんな風になってしまったのである。
まぁ歩いたら1時間半の場所なだけマシだったのかもしれないが。
もっと遠くに言っていたら帰るのが深夜になってしまうだろう。
(…帰ったらマシュウに餌をやらないと…)
フィレンツェから一緒に連れてきた猫・マシュウは今日は置いてきた。
今ごろ部屋でごろごろしているのだろう。
…何だかそう思うとこうして歩いて帰るのが嫌になってきた。
そんな事を思いながらも無表情で考え事をしていると
ふとティがこちらを振り向いてアランの顔をじっと見つめているのに気が付いた。
「…何だ、ティ?」
何か聞きたそうな表情だったのでアランは聞いてみる。
するとティは「やっぱり…」と小さく独り言を呟くと
アランに向かっておそるおそる口を開いた。
「…怒ってますよね、アランさん……?」
一体何に、と思ったがそういえば思い当たる節があった事に気が付く。
実は電車に乗り遅れたのはティの責任なのだ。
元々4時に電車が来る事は知っていたのだが15分前ぐらいに帰るぞ、と呼んでも
ティは「もうちょっとここにいたいです」と言って遊んでいたのだった。
というわけで乗り遅れたわけなのだが…おそらくそれを怒っていると不安になっているのだろう。
別にさほど怒っているわけではなかったが乗り遅れたのはティの責任だ。
なのでアランはちょっと虐めてやろうかと思い、わざと怒っているように言った。
「…………まぁな」
そう言うとティは頭を抱え「ああ、やっぱり…」と申し訳無さそうに呟いた。
「ごめんなさいアランさん。私がちゃんとアランさんの言う事を聞いていれば…」
「乗り遅れずにすんだな」
「ですよねぇ……」
しょんぼりとしながら謝罪を述べるティを見てアランはふ、と笑ってしまった。
からかい甲斐のある奴だと思う。
素直に感情をあらわしたりするので扱いやすいというか何というか。
フィレンツェで一緒に生活していた時にも思ったのだった。
ティは傍にいて飽きない奴だと。
「…冗談だ。…別に怒っていない」
いい加減からかうのもやめようかと思いそう呟くと
ティは今にも泣き出しそうな表情ではぁ…とため息をつく。
「アランさん本当は怒ってるでしょう…?気を使わないで正直に言ってください…」
「………いや、本当に怒ってない」
そもそも自分が引っ張って行けば良かったのだ。
ティの我が侭に付き合わずに連れて行けば充分間に合ったであろう。
アラン自身、自分の責任だと思っているので別に怒ってなどいないのだが。
「…遠慮なんかせずに怒っても良いんですよ…?」
そうティがしょぼしょぼした表情で呟く。
そんなティを相手にするのがいい加減面倒になってきたので
アランは一息ついた後思った事をそのまま口にする。
「だから怒ってないと言ってるだろう。…俺がお前に遠慮すると思ってるのか?」
そう言うとティはきょとんとした表情でアランを見つめ、
思考を巡らせた後苦笑しながら呟く。
「…………しませんね」
「だろう?…なら気にするな。…それより足動かせ、足」
アランはそう言いながらティを追い越し早足で歩きだす。
「は、はい」
急かされたティはアランの隣へ行き、街へ向かって歩き出した。






「…あ、見えましたよアランさん」
踏切付近に近寄ると、遠くから白い建物が見える。
住んでいる街は白い家が多いので遠目からでも結構目立つのだ。
ティは明るい表情で街を見つめていたが歩きつかれたのだろう、額に汗が滲んでいた。
そして妙に息が上がってる癖に「疲れました」などとは一切言わなかった。
そんなティを見てアランはため息をついた。
辛かったら言えば良いのに、と思った。
先ほどの事を気にしてか我が侭も言わずただ自分のご機嫌取りをするように
話題を振っていたティにアランは気が付いていたのだが。
…よほど気にしているのだろうか。
「………ティ、休憩だ」
疲労で足ががたがたであろうティを気遣ってアランは休憩を提案した。
ティが「え?」と不思議そうに呟くのと同時にアランは近くの野原に腰掛ける。
彼女の言い分も聞かずに勝手に座り込んだアランは
「疲れた……」と徒労したように呟く。
実際にはそんなに疲れはいないのだが。
だがティはアランの嘘に気が付いたのか気が付いていないのか分からないが
「そうですか…」と呟き、アランの隣に腰掛けた。
そしてアランの顔を眺めながら笑顔で明るく微笑んだ。
「実は私もちょっと疲れてたんですよ〜」
「………」
どうやら本気で気が付いていないようだ。
そんなティを見てアランが微笑するとティは不思議そうに首をかしげる。
「?どうかしました、アランさん?」
「いや、別に……」
本当の事を言ったら「心配させてごめんなさい」と謝罪を述べるだろうからアランは黙っていた。
ティはどうも納得いかないような表情をしていたのだが
やがて視線をアランから街の方へと変える。
「…夕焼けが綺麗ですねぇ……」
赤い夕焼けに彩られた海を見ながら惚けたような表情で海岸を見つめる。
ティの視線につられアランも視線を街の方へと向けた。
さきほどまで青かった海が嘘のように赤く染まっている。
そして街は白い住宅が夕焼けで赤く染まり、少し赤み掛かった色彩をしている。
なるほど、確かに綺麗だ。
海の匂いを感じアランはふ、と笑みを浮かべる。
「……そうだな」
相槌ではなく本当にそう思った。
そんなアランを見てティはクス、と笑うと今度は視線を踏切へと変える。
しばらくしたらまた海でも眺めるんだろう、と思っていたのだが
ティは飽きる事がないかのようにずっと踏切を見つめていた。
そんなティを不思議に感じ、アランは彼女に問い掛けてみる。
「…踏切が珍しいのか?」
「え?…いえ、そんな事はないですけど。…ちょっと兄さんが言っていた事を思い出しました」
突然話し掛けられハッとしたように表情を変えるとティは悲しそうに笑う。
「………」
久しく見ていなかったティの辛そうな表情にアランは胸が痛むような感覚を感じた。
そうしてこんな表情をしていた頃の事を思い出す。
それはフィレンツェにいた頃だった。
彼女の身の回りで起こった出来事で一番悲惨だったのはおそらく彼女の兄を殺害した事だろう。
ティの提案で彼女の兄を殺し、そうして2人は逃げてきた。
殺した日の夜のティの空元気な笑顔を見ているのは物凄く辛かった。
いつもより喋って気を紛らわせるかのように
明るく振る舞うティはアランの目にも痛々しく映った。
…ティを不幸にさせてしまった。
でも彼女の兄を殺さなければティはきっと彼女の両親と同じように兄に殺されていただろう。
…死んで欲しくなかった、ティには。
「……あいつが何か言ってたのか?」
心の動揺を悟られないようにアランはそう冷静を装って呟くと
ティは微笑みながら遠い遠い空を見つめた。
…まるでそこに彼女の兄がいるかのように、愛しく見つめた。
「人生には沢山道があると言ってました。…まるで線路のように、無限にあると。」
「……俺たち人間を電車に例えて?」
よくある話だと思いつつもアランは黙ってティの言葉を待った。
「ええ、行き先は自分自身が決めるものだと昔…両親が生きていた頃に言ってました」
「………」
昔話をする彼女はやはり傷ついたような表情をしていて。
…今すぐやめさせたかったのだが、きっと止めたら泣いてしまうだろう。
なので黙って話を聞く事にした。
「今思えば私の事心配してくれて言ってたんですよね…
お前は自由だって言ってくれたんですよね…」
自由。
人間は狭い世界より、広い世界を求める。
自分で決めた地を求める。
それは自我を持たない野生の動物も同じ事で。
生きているものすべてが求めるもの。それが自由。
実際現代社会は自由に生きる事を制限されている部分もあるのだが
それでも求めてしまうのだ。自由というものを。
なのでありきたりなセリフだがアランはこの言葉は結構好きだった。
誰にも決められない自分の道を進むための励ましの言葉が、好きだった。
「……そうだな。誰かに決められたレールなんてつまらないだろう」
そう言うとティはアランの方を向き「そうですね」と呟いた。
「きっとそれを言いたかったんだと思います。
…だから無理矢理連れてかれそうになった時は困りました。
…私が進みたい道を選択させてくれないのかぁ…って思って。」
「…………」
確かに家族は一緒にいるべきだとアランは思う。
だが彼の場合無理矢理すぎた。
自分以外の男の傍にいたいと願っている少女を無理矢理引き離そうと必死だった。
「………でも私はアランさんのお陰で自由になれました。
…居たい場所に居る事が、出来ました。…本当に有難うございました」
ティはそう言いながらぺこりと頭を下げ、にこりと笑った。
その笑顔は先ほどとは違い柔らかい笑顔で。
アランも自然とほっとしてしまった。
実際には傷ついているのだろう。
…泣きたいんだろう。
でもそれを見せようとはせず、必死なんだと分かった。
…アランには無理矢理傷を引きずり出し癒す事なんて出来なかった。
でも傷を見てただ黙って見ているなんて事も出来るはずもなかった。
だから無意識的に彼女を抱きしめた事には自分自身驚いた。
「………ア、アランさん?」
ティは顔を真っ赤に染めながら、驚いたように口を開いた。
「………」
アランは何も言えなかった。
癒そうなんて思わない。
見捨てようなんて思わない。
だけど何も出来ないと気が付いてしまうと妙に虚しいものがあって。
彼には抱きしめる事しか出来なかった。
「……良かったな、ティ」
やっと口が開いたと思うと、思っている事と違った事を言ってしまって。
それでもそれしか言えないような気がした。
ティは動揺してしばらく口が開けないようだったが勇気を振り絞って言葉を吐いた。
目元に涙を浮かべながら、優しく囁いた。
「………はい。私……アランさんの傍にいれて、幸せです……」
アランの背中に腕を絡めて、安心しきったかのように笑って。
2人はしばらくそのまま、抱きしめ合っていた。
遠くから、海の音が聞こえた。
優しく、響くメロディ。
心地よい音と潮風が2人を撫でた…。





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