桜都国に来てかれこれ一ヶ月…。
小僧―小狼との鬼狩りもそれなりにこなす事が出来て、
あいつの剣の修行に付き合う日々を送っている矢先の事だった。
「………それ何だよ」
キャッツアイ―ふざけた名前だがこれが正式名称らしい―に戻った黒鋼は
目の前でへにゃりと笑う細身の男の手元に視線を送る。
男―ファイは突然現れた黒鋼に驚く事もなく、説明し始めた。
「あ、これー?ベネチアングラスで作られたワイングラスでーす。」
そう言ってファイは「綺麗でしょー?」と目の前のグラスを揺らす。
それに合わせて中のワインがゆらゆらと揺れた。
「………お前この間酔ったの忘れたのか?」
白詰草で買った酒を持ち帰った日、姫とにゃーにゃー言いながら逃げ回り、
とてもじゃないが手に負えない二人を思い出し、黒鋼は苦い表情を見せる。
そんな黒鋼を面白がっているのか、ファイは「そんな事もあったねー」と他人事のように呟く。
「だからこそ確かめたかったんだよ。オレ本当はあんな情けなく酔わないよー」
嘘くせぇ。
お前本当は酒が弱かったんじゃないか、ただ本人が強いと思っていただけで。
その風貌から酒が強いとは思えない―人は見かけによらないものだが、
少なくとも黒鋼にはファイがお酒に強いイメージなど感じられなかった。
ジェイド国で身体が温まる程度に、といって少量のお酒を飲んでいる姿を見かけた時は、
結構いける口だと勘違いしていたが。

それはともかく。
「金の無駄遣いするな」
店の装飾からして明らかにお金をかけすぎである。
ダーツなどファイ以外にやっている奴を見かけた事がない。
とにかく最低限必要なものさえあればいいと思っている黒鋼は、
無駄なものにまでお金をかけている店内を見て非常にもったいなさを感じた。
一体誰が稼いでいると思っているんだこいつは。
「えーでもオレ、お店には力入れたいからこういうのもっと買いたーい」
駄々っ子のようにごねるファイを呆れながら睨むと「ね?」と首を傾げてきた。
おねだりしているらしい。誰が屈するものか。
いざという時にどうする気なんだこの白いのは。
そう思ったら立ち話をしているのも馬鹿げている事に気づき、黒鋼はファイの隣に腰掛けた。
「そんなもん買ったって、次の世界には持っていけねぇだろ」
横目でファイを見つめながら、注意を呼びかける。

不本意ながら(黒鋼だけ)さまざまな世界を旅する小狼達にとって、
その世界で物を買ったとしても、次の世界に持っていける物はない。
ワイングラスぐらいなら小さいから持っていけるかもしれないが、
白まんじゅうに持ち運んでもらうほど重要な物でもないだろうに。
だがファイは「黒様ひどーい」と不満の声を漏らす。
「綺麗なものは置いておきたいじゃない?」
そういうものでしょ?と首をかしげるファイ。
…そういうものだろうか。
黒鋼は自分の傍に綺麗なものを置いておきたいと思った事はない。
物ではなく、人間なら話は別だが。
(……って何変なこと考えてるんだよ俺は)
綺麗な人、という単語で真っ先に浮かんだのが
目の前のへらいのだなんて、恥ずかしくて到底言えるわけがない。
だが置いておきたい―傍にいて欲しいと願う気持ちはよく分かる。
目の前の白い肌をした男を手に入れられたらどれほど幸せか。
濡れた瞳で俺を見上げる時のあいつを見ていると…
―考えれば考えるほどつぼにはまっていきそうなので、黒鋼は自分の考えを中断した。
「…お前は綺麗なものなら何でも買うのか?」
さきほどの答えだとそういう事になると思った黒鋼はそう問いかけた。
「うーん、まぁ欲しいものと綺麗なものが一致してたら買うけど。」
そう言いながら嬉しそうにワイングラスに触れるファイ。
よほどお気に入りのようだ。黒鋼には到底理解できないようなデザインだが。
ワインを口に含み一息ついた後、ファイはいつもの軽い口調ではなく、真剣な表情で呟く。

「…それにオレは嫌だよ。手に入れたって無駄だから、そう思って手に入れないのって」
「………」
心を読まれているのかと思った。
ファイの言葉に一瞬ドキリとした自分に後悔しながら、黒鋼は小さく舌打ちをする。
そんな黒鋼に目もくれず、愛しそうにグラスを眺めるファイを見て、ますます苛立つ。
「………嫌がらせか?」
「何のことかなー?」
軽く流すファイの顔は笑っているが目は笑ってない。
その態度がますます気に入らない。
こいつの言いたい事はなんとなく理解した。
今の発言は黒鋼とファイの関係を含んだものだったのだろう。
いつか自分は国に帰るから、旅が終わりを迎えたら離れ離れになってしまうから。
そう思って適度に距離を置いているのが苛立っているのだろう。
じゃあ素直にお前が欲しいって言ったらお前は俺のものになるのかよ。…ならない癖に。
「欲しいなら、あげるよ?」
「………」
何を、と問いかけるような無粋な真似はしなかった。
出来るものなら黒鋼だって欲しい。ガラス細工で出来た綺麗なものを。
だが、そんな軽く言わないで欲しい。
今のこいつの発言は、ただの投げ売りじゃないか。
そんな安いものに惹かれたわけじゃない。
「いらねぇ」
「……そう」
少し悲しそうな、だが答えは分かっていたような素振りで呟くファイ。
だがそれも一瞬の事で、すぐさま「へへへ」と情けなく笑うとワインをぐい、と一気飲みした。
「やっぱりオレ、わんこに嫌われてるのかなー?」
いつもどおりの自分を演じようとしているファイを冷めた目で眺めながら、
黒鋼はある悪戯を思いついた。
そっちがそうなら、こちらはいつもとは真逆の反応を返してやろうじゃないか。
…ファイの自虐に付き合わされた仕返しに。

「…………す」
「?」
「す………」
いかん、悪戯のつもりが恥ずかしくなってきた。
黒鋼の人生において、女の子に告白した事なんて一度もない。
そういった浮いた話などして強くなれるものか、と思ってきたし、
溜まっているのならば店の女とすればいいだけだと考えてきた。
突然ここへ来て「好きだ」なんて恥ずかしくて言えるか。
…失敗した。言わなきゃ良かった。
突然頭をかかえた黒鋼を見て、察しがついたのか「ふふ」と笑い声が聞こえてきた。
何だこいつの余裕は。お前本当は好かれている自信あったんだろ、と文句をつけたくなる所だ。
ちらりとファイの方を見るとさきほどの暗い表情が晴れて、とても爽やかな笑顔を浮かべている。
…やっぱり悪戯なんか思い付くんじゃなかった。自分の馬鹿加減に苛々してくる。
「オレの事欲しくないって言っておきながら、オレの事好きなんだー?」
「うるせぇ」
まくしたてるように話すファイの声を聞こえないように、耳をふさぐ黒鋼。
塞いでも聞こえるものは聞こえるのだが、ないよりはマシだ。
「それって黒みゅうはオレとピュアな関係を望んでいるの?
それともただ一時的に肌を重ねればいいだけの相手?それってセックスフレ」
「ちょっと黙ってろ」
卑猥な言葉が出てきたので慌てて掌で奴の口を塞いだ。
塞がれたにも関わらず、ファイの表情は驚きよりも人の弱みを握れた事に喜びの表情を浮かべていた。
やっぱりむかつく。
「………ねぇ」
くぐもった声が聞こえた。
掌にかかる吐息がくすぐったくて黒鋼は手を離したが、すぐさまファイにぎゅっと手を握られる。
何だよ、と文句をつける前に指先をぺろりと舐められた。
「っ………!!」
ぞくぞく、と冷たい悪寒が走る。
敏感に感じた黒鋼は握られた手を乱暴に振った。
力でならこのへらいのには勝てる。こんな馬鹿げた行為に付き合ってられるか。

思いっきり勢いをつけたのがいけなかった。
黒鋼の腕はカウンターの上に置いてあったワイングラスにあたり、グラスは床へと落ちていった。
ガシャン。
「あ、割れちゃった……」
派手に割れたグラスにびっくりした様子を見せながらも、やけに冷静に呟くファイを尻目に、
黒鋼はあいつのお気に入りの物を壊してしまったという罪悪感と、
ファイが人の指を舐めるから悪いんだという自業自得という二律背反で揺れていた。
そんな黒鋼に目もくれず、ファイは塵取りでワイングラスだったものを処理すると、はぁ、とため息をついた。
「……どうして壊れちゃうんだろうね」
その呟きは、割れたワイングラスに向けた台詞だったのか、それとも別のものに向けた台詞なのか―
意図が読めず、ファイを真剣な表情で見つめていた黒鋼だったが、
そんな彼を見てファイはいつもの軽い笑顔を向ける。
「気にしなくていいよ。こういうの壊れやすいし。」
にこにこと笑うファイの姿が見ていられなくなり、黒鋼は軽く舌打ちをすると、
カウンターの椅子から降り、手をファイの方へ差し出した。
ファイはもちろん何のことだか分からないのできょとんと首をかしげる。
「………新しいやつ買ってくる。だから金…じゃない、札よこせ」
桜の形をした財布かわりのものを差し出せ、と要求した。
だがファイは黒鋼の要求を「いいよ」と拒否する。
「いらないよ〜。そりゃあったら嬉しいけど、なくてもまだまだ代わりのグラスはあるし。」
確かにここは店だから代わりのグラスも食器も沢山あるだろう。
だが黒鋼には、あのワイングラスは他の食器と比べて特別なもののように映ったのだ。
ファイが楽しそうに眺めていた、あのベネチアングラスが。
「よこせ」
首を縦に振るわけにはいけない。
ファイがあのグラスにどうしてもこだわっていると感じたのならば弁償するのが道理だろう。
そう思い、黒鋼は引かなかった。だがファイは「いいよぅ」と首を横に振る。
振った次の瞬間、いつもの軽い調子でぎゅっと黒鋼に抱きつきそっと耳元で囁くように呟いた。

「…オレは君が壊れなければいいよ」

一瞬聞き間違いかと思った。軽い調子で抱きついたわりには、重い台詞だから。
目を見開きながら目の前の男に視線を送るが、ファイは黙って笑顔を向けるだけだ。
「………馬鹿野郎」
お前の方が壊れるんじゃないか、不安だろうが。
抑えきれない不安を胸に抱きながら、黒鋼もファイを抱きしめた。
細い身体を護るように、しっかりと。
ファイは驚きもせず、されるがままに黒鋼の胸の中で瞳を閉じた。
背中に回していた腕はぎゅっと黒鋼の服をつかんでいた。
離れないようにと、願いながら。






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