足音が聞こえる。
それはゆっくりと、しかし確実に自分の元へ近づいている。
空間が静かに歪み、クラトスは気配に気づいた。
「…………」
眠りが浅かったため簡単に意識を引き出すと、
彼は小さく息を吐き出し、瞼をあける。
そこは光が射さない、暗闇だけの空間だった。
「………!?」
静かに息を呑む。
これは一体。
クラトスは眠気で朦朧とする脳を無理やり働かせ、眠る前の状況を思い出す。




確か自分はオリジンの封印の前で死闘を繰り広げられたロイドとの一戦以来、
傷を癒すためダイクの家に身を置いていたはずだ。
そして昨夜は2階のロイドが使用していたベッドに身を潜らせ、眠りについたはずである。




それが一体何故、目が覚めるとこのような所にいるのだろう。
疑問を胸に抱きながら、クラトスは状況を確認するため、ゆっくりと起き上がる。
そうして見渡してみても、辺り一面は暗闇で覆われていた。
一筋も光の射さない、冷たくて無機質な寂しい場所。
そんな所にクラトスは存在していたのだった。




「どういう事だ……?」

口を開いても、聞こえるのは自分の声が反射して響く音のみ。
さきほど聞こえてきた足音も気配も、何も感じない。
まるでそこは一人だけの世界。
誰もいない事への恐怖を感じながら、クラトスは自分を励まし、立ち上がったのだった。




(音が反射している……)

自分の足元を見つめながら、クラトスは状況を把握するべく、四方すべてに意識を向ける。
歩いても歩いても変わらない風景に戸惑いながらも、
だんだんとこの世界の仕組みを理解する。
おそらく、これは夢か幻なのだろう。
夢のような曖昧さはないが、ダイク家から立ち去った記憶も、
誰かに連れ去られた記憶もないので、そう断定することにした。
もし自分が多重人格だったら覚えていなくても当たり前だが、
あいにくクラトスはロイドから受けた傷以外、身体、精神共に健康である。




それにこの空間は嘘臭い。
人間の生きている気配がしない空間などありえないのだ。
…ミトスの望む千年王国が成就した後ならともかく。




(ミトス…)
そこでクラトスはある事に気がついた。
無機質な空間、どんなに歩いても見えることのない光。
ハーフエルフという影を背負いながら、ただ純粋に世界を救おうとさまざまな経験を乗り越え、
そして人間に裏切られた勇者―ミトス。
ここはそんなミトスの内面をあらわしているかのようだった。




(これはミトスの作り出した、世界…?)




彼を何度も裏切ったクラトスにとって、
恨まれる理由も、このような幻に送り込まれるのも頷ける。
特にミトスは姉、マーテルの次に自分を信用していたのだ。
もちろんクラトスもミトスを愛しく思っていた。
裏切られた、となれば憎くなって当然なのだろう。




(………だが、私はもうミトスの理想には共感できない…)




人の体を間違った形で歪め、すべてが無機生命体の世界など許されるはずは無かった。
その決意を再び堅くするきっかけとなった、死んだ妻―アンナとの愛の結晶、
ロイドの事を思い出し、このような状況なのに、クラトスは思わず笑みを浮かべる。
おそらくロイドがいなければ、今もミトスの下へ仕えていただろう。
素直で明るくて、そして人を突き動かす何かを持った少年―ロイドに、
クラトスは惹かれていったのだった。

親としての愛情もある。
息子だと気がついた時、小さな頃死んだと思っていたロイドが生きていた事に感動を覚えた。
しかし、今はそれとは違った感情が生まれている事も理解している。
それに気がついたのは、実はつい最近の事だった。
オリジンの封印の前で、ロイドと戦い、倒れた時に気がついたのだ。
息子としてではなく、一人の人間として彼を愛している事を。




(………馬鹿らしい、と思ったが…)

眠れない夜にいつも考えるのはロイドの事。
越えるはずのない境界線を越えてしまったのだ。クラトスにとってロイドという存在は。
だが、二人は血の繋がった親子であると同時に、男同士でもある。
二重のタブーを犯してしまいそうな自分を何とか堪え、
ロイドに告げる事なく彼の傍から去りたい―そう思っている。

一緒に過ごしてしまえば何かが狂いそうだったから。
いつかこの手で彼を傷つけてしまう、そんな気がしたから。
親子としてではなく、他人として産まれていれば、この気持ちは許されたのだろうか。
それとも、最初からずっと一緒にいられる関係ではないのかもしれない。
クラトスには、ロイドは眩しすぎた。




「ぐ………んぅ、ふ……っ」




突然、近くから声がした。
クラトスは驚き、警戒しながら辺りを見回す。
姿は見えない。
だが、声はすぐ近くから聞こえてきた。
(何処に……?)
鋭い目付きで、暗闇を見据えるクラトス。
さきほどまで気配のなかった空間に突如聞こえた人の声。
何かの罠か、とクラトスは身構えた。




そしてしばらくして、今度は一瞬にして世界は光につつまれた。
あまりの眩しさに思わず目を細める。
そして目を開いた瞬間、クラトスは信じられないものを目の当たりにする。
さきほど声の主を。




荒い息が聞こえる。
その吐息は少しだけ甘く、満足そうな声音をしていた。
苦しい事を楽しんでいるかのような、そんな自分の声に自己嫌悪しながらも、
彼は指を止める事などできなかったのだった。
脳裏に浮かぶのは愛しく思う少年の事ばかり。
ゆめの中だけは、自分の事を優しく受け止めてくれる少年の姿があったのだった。

「んっ………」

本来入れられるはずのない穴を、己の指でかき乱す。
空いている掌で露になった胸の突起物をいじりながら、
汗ばんだ体と上気した頬を隠す事なく、快楽の海へと、独り潜り込む。




一体何をしているのだろう。

目の前の場景に嫌気がさし、クラトスは目をそむけた。
光が見えたと思った矢先、見えたのはロイドのベッドで自慰している己の姿だった。
遠くから見つめている、といった視点ではなく、何故かクラトスの意識は
自らを慰めている幻の中の、彼の体の中にいた。
意識はあるものの、体までは支配できなかったようで
先ほどからやめろと必死にもがくのだが、
それに反して自分を攻め立てる速度は速くなるばかりだったのだ。




(駄目だ、これは幻だ……)

これ以上ミトスの罠にはまるわけにはいかない。
クラトスは目を閉じ、自らを高ぶらせていた指を引き抜こうともがく。
だがやはり体は動かず、行為を続けたままだった。

クラトスは指の動きに合わせ、反応をそのまま自分の体に返す。
体の芯が痺れるほど感じるそれは、快楽という名の甘い罠だった。
変に意識がはっきりしている所為か、幻のクラトスの体の中にいるクラトスもまた、
彼と同じように快感を感じていたのだった。




「はぁ、はぁっ、はぁっ……ィドっ…」

喘ぎ声と共に吐き出されたその言葉は、誰かの名を呼ぶ声。
その名前が誰であるかを、クラトスは良く知っている。

(一体なんのつもりだ……!?)

ミトスの意図がわからず、クラトスは目の前の光景をただ黙って見つめる事しか出来なかった。
これは自分への罰なのだろうか。
ミトスを裏切り、一時的とはいえロイドを裏切り、
そして自分自身のロイドへの気持ちを偽り続けている己に対する罰なのだろうか。
だとすればミトスはよほど人を追い込むのが好きらしい。
クラトスの罪悪感を存分に引き出す罠を知っていて、このような幻を見せるのだから。



そう考えているうちに、幻の中のクラトスは、今果てようとしていた。
上に向かってそそりたっているものから先走りが溢れ始める。
それはシーツを汚し、うっすらと染みとなっていた。

「イド……もうっ……イ、くっ……!!」

ゆめの中ではロイドに攻めたてられているらしいクラトスは、
そう叫ぶと、指の動きをさらに激しくし、一気に動かし始めた。
指の抜き差しのリズムに合わせて唇から嬌声が漏れる。




行為に夢中で周りが見えていない幻の中のクラトスは気がつかなかった。
彼の意識内にいるクラトス自身もすぐさま気がつかなかったぐらいだ。
朦朧とした意識の中、ふと何か音が聞こえた。
それは誰かが歩み寄る音で、目覚める前と同じように足音が反射している。
ダイク家ではありえないほど響いているその足音に、
射精しそうになるのを堪えながら、クラトスは耳をすます。
それはゆっくりと、しかし確実に自分の元へ近づいていたのだった。

部屋の空気が一瞬だけ歪むと、それと時を同じくして周りの風景も歪んで消える。
そして気がついた時には、さきほどの闇の世界に引き戻されていたのだった。




「くっ………ぅん…」
幻から開放されたにも関わらず、クラトスの体はいまだに火照ったままだった。
強く感じる射精感も、額を流れる汗も、乱れた服装も何もかもそのままだったのだ。
だが、さきほどと違うのは自分の意志で体が動かせる事。
己の欲望を吐き出す前に指を引き抜いたクラトスは乱れている息を整えながら、
近づいてくる相手の方を見つめた。




「いい格好だな、クラトス?」
「………!!」




クラトスは言葉を失った。
目の前にいる人物が意外な人物だから、というのもある。
だが、何よりあの情事を見られたかもしれない、という危機が彼の脳裏によぎったのだった。
纏わりつく脂汗が一瞬にして冷や汗に変わる。

「どうしたんだよクラトス?……俺に見られたのがそんなに恥ずかしいのか?」

彼らしくない、いやらしい笑みを浮かべながら、
目の前に現れた少年は獲物を見つけた動物のように、鋭い目でクラトスを見下ろす。
見下ろされたクラトスは驚きと、困惑の表情で相手を見つめ返す。




「ロイド………お前」




そこにはクラトスの愛している、ロイドがいた。
幻だと思っていた世界に何故ロイドがいるのだろう。
この信じられない現実に言葉がでない。
それとも、これもミトスの罠なのだろうか―
言葉を失い、唖然としているクラトスの表情を眺めながら
ゆめの中のロイドは嬉しそうに囁くのだった。




「何驚いてるんだよ?…幻の世界だと思っていたのに、俺が目の前に存在しているから?
それとも俺をおかずにしてオナニーしている現場を見られたから?
あぁ、それともどっちも」
「っ、ロイド!!」




ロイドの軽はずみな発言にクラトスは咎めるように口を開く。
すべてを否定したい気持ちだった。
だが、ロイドが呟いた言葉はどれもが当たっている。
否定出来ないのが歯がゆい。
それに彼の口からこれ以上猥褻な言葉を聞きたくなかったのも、止めた理由の一つだった。
都合のいい事だと思う。だがクラトスにとってロイドは穢れなき少年のままだった。
しかし何故か、ゆめの中のロイドは彼の想いを反して、淫らな言葉を呟く。




「なんだよ、俺は本当の事いっただけなのに…」
怒りを露にしたクラトスと睨み合いながら、目の前のロイドは不機嫌そうに呟く。
だが、何かを思いついたのか「あぁ、でもさ」と呟き、
軽蔑を込めた眼差しで、喉を楽しげに鳴らしながら笑ったのだった。




「本物のロイドだったら、『気持ち悪い』って言うところなんだぜ?
本っ当、気持ち悪いよ、あんた。何実の息子に発情してんだよ」
息子の声、息子の姿で否定され、クラトスは怒りと羞恥のあまり顔を赤くした。
クラトスは頭に血が上っているのか、幻相手に激昂する。
「っ……!!黙れ!!お前に私の何が…」
その言葉を待っていた、とばかりに目を細め、にやつきながらロイドが口を挟む。
「分かるか、って?分かるさ、俺はあんたの望む『ロイド』だからなっ!!」




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